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ギターミニコンサートのご案内[自給自足農園「ゆめぞの」から(池田孝蔵)]

投稿日時:2015/06/12(金) 09:53

この度、私の所属するギターサークル「アルファンブラ」の年に1回のミニコンサートを開催することになりました。

今回が第28回ということですが、私自身は初参加です。

公民館の会議室で一般開放ということで、ごく内輪で、観客も毎年10名程度と寂しいようですので、お近くの方は気楽においでください。

ギターサークル「アルハンブラ」 第28回ミニコンサート
日時:平成27年6月18日(木)  13時30分開演
場所:庄和町 正風館 2F会議室   入場無料

里村 忍                アンダンテ                      ソル
清水 哲子              ブランテルの子守歌                横尾幸弘編曲
児島 勇                鉄道員のテーマ
国井 綾子              コサックの子守歌(ロシア民謡)        横尾幸弘編曲
                   小ロマンス                     ワルカー
野島 美智子             リュートのための小品              アノニモ(不明)
藤井 まさ江             ミロンガ                       アブロニス
船田 愛子              過ぎし日のミロンガ                 フェレール
須賀 京子              雨だれ                         リンゼイ
須賀 京子+池田 孝蔵        母に捧げるソナチネ               横尾幸弘作曲
三本木ハマ子+池田孝蔵        ニ長調のソナタ                  シャイドラー
船田 愛子+藤井まさ江        ラルゴとロンド                   カル
出演者全員              ヴァイオリン協奏曲から(1~3楽章)      ヴィブァルディ
                    少年時代                        井上 揚水作

「泣くな天助」[自給自足農園「ゆめぞの」から(池田孝蔵)]

投稿日時:2015/03/18(水) 20:57

「泣くな天助」
 
 生涯で10回以上読んだ本はありますか。
 わたしは、この「泣くな天助」ただ一冊です。あの「星の王子様」も3回止まりです。
 昭和30年「少年画報」1月号の付録であった、山内竜臣作の漫画の読み切り本です。
 当時わたしは、小学5年生で、親から買ってもらった初めての雑誌でした。
 その少年画報では赤胴鈴之助が大人気で、表紙をめくると、あの、兄弟子の竜巻雷之進との果たし合いで、赤胴鈴之助の一撃で、竜巻雷之進の額から血が滴るのを見て、「竜巻さん、これを」といって、手布を手渡す名シーンが、ページ一杯に描かれており、それを真似てノートに描いたものだった。
 赤胴鈴之助にも熱中したが、それ以上に長い間、誰にも言わずに密かに愛読していたのが、付録についていた読み切り漫画本の「泣くな天助」だったのだ。
 風邪で学校を休んで寝ていたときには、決まって布団の中で、これを読んでいた。
 その後、中学、高校と進むうちに、家の中には雑誌や漫画のたぐいは、ただ一冊この「泣くな天助」を除いては一切なくなっていった。
 そして、受験勉強も重くのしかかってくる頃、気分直しに「泣くな天助」を読もうとしたら、どこにも見当たらないのだ。親に見かけなかったかと問うと、それは近所の子供にあげてしまったとのこと。わたしが大切にしていることを伝えていなかったから、しかたないかもしれないが、たかが漫画だから、不要なものとして、処分したとのこと。
 どんなに、くやしかったことか、今思い出しても、胸がつまる。
 その「泣くな天助」をこの度ネットオークションで見つけて、2500円で落札した。
 みなしごだった天助は、ただ剣が強いだけの悪童だったのが、たまたま毒殺された若様とそっくりだったことから、偽若様として、城を我が物にしようとする一味に加わってしまうが、それを知ってか知らずか、妹の姫が、ひたすら気遣ってくれ、人の情けに触れたことがない天助は、とうとう姫を暗殺しようとする一味に猛然と反逆する。
 そして最後に実は自分は偽物であり、「姫は何も知らないのだ」と「打ち明けてしまう。
 そのとき、姫は「いいえ、みんなしっています」と答える。
 男は泣かない、まして剣士は、だけど、、、、。で終わる。
 わずか102ページ漫画であるが、内容が深く、濃い。今読んでも少年の様な胸のときめきを覚える。この漫画の作者山内竜臣氏にはもっと活躍してほしかった。
 この本と出会ったのが12歳、そして再び出会ったのが、72歳。還暦から数えると12年目というのは、単なる偶然であろうか

くたばれ花粉症[自給自足農園「ゆめぞの」から(池田孝蔵)]

投稿日時:2015/03/04(水) 21:51

くたばれ花粉症
 
 今年も花粉症の季節がやってきた。私は、昭和49年からひどい花粉症を患ってきた。そのいきさつは、「ゆめぞの」ホームページの第6編(平成12年1月)にくわしく述べているので繰り返さないが、31歳になって突然発症したが、当時花粉症というものが、世に知られていなかったため、病院で梅の花粉の影響ではないかと言っても、全く取り合ってもらえず、風邪薬を処方され、目がかゆいといえば、眼科に回されて、目薬を処方されるだけであった。
 その後、ステロイド配合のセレスタミンという薬で、ひどい症状を何とか抑えてきた。
 そのステロイドは医者はとにかく処方をいやがる。ぜんそく患者でも、一日50mg以下に抑えるという厚生省の基準であるが、セレスタミンは一錠0.25mgであり、200分の一であるとともに、2月から4月までのわずか3ヶ月であり、期間が限定されているから、使いすぎによる副作用も心配するほどでもないが、医者はまず処方はしない。
 ステロイド以外の薬でも、市販のものでも効き目はあるが、たとえば、「コンタック600」などは、頭がボーとなって、まるで麻薬をすってラリってしまうような感じで、とてもじゃないが常用はできない。
 花粉症が、なぜ日本にだけ顕著な現象であるかは、第6編でも触れたが、日本の「塩」の事情にあるとわたしはずっと指摘してきた。日本で、海水から塩を作ることを禁じた法律は昭和45年に成立した。そして、わたしが花粉症を発症したのは昭和49年。そのころ、アトピー性皮膚炎も昭和の末あたりから爆発的に増加した。花粉症は、戦後植えた杉が成木となり、花粉をつけるようになったからと説明されているが、アトピーは食生活が欧米化したためだと説明されている。だからといって欧米で特にアトピーが多いわけではない。
 工場で作られた精製塩が食用に用いられているのは、世界中で日本だけである。どんな貧しい国でも塩は天然の岩塩や、海水であり、精製塩はそもそも食品ではないと言う理由で、食用に用いられることはない。
 とにかく、花粉症やアトピーは日本だけに顕著に見られる現象であることに注目しなければならない。このことに当局も気がついたのか、海水からの製塩を禁じた法律は平成9年4月に廃止された。それに伴い、スーパーにも実に多種の塩が並ぶようになった。しかし、味噌、醤油工場や食品工場では、相変わらず安価な精製塩を使用しているだろうから、あまり状況は変わっていない。
 わたしは、塩の実態に気がついてからは、塩は、直接料理に使うものとしては、「藻塩」を漬け物や、味噌には伯方の塩を使っている。藻塩は万葉集にも出てくる日本古来の製塩法であり、伯方の塩は、メキシコ湾でとれた自然塩を原料とした塩であることを知ったからである。
 平成14年に定年退職して以来、極力自給自足農園で採れた物食するようになり、味噌も5年ほど前から大豆栽培に成功してから自給している。
 それでも毎年2月20日ころから花粉症には悩まされてきた。
 そして、4年前から高血圧の薬を飲むようになり、合わせて、この時期には花粉症の薬「アレグラ」も処方してもらい、しのいできた。薬の効果なのか、ほとんど花粉症の症状に苦しむことはなくなった。
 今年も2月27日に「アレグラ」を処方してもらったが、今年は薬の効果を見極めるため、本当に花粉飛散の最盛期まで待って、呑んでみることにした。
 それが今日である。テレビの予報では、真っ赤で非常に多いとのこと。そのなか、ゴルフの練習場に行き一時間練習した後、畑で農作業を一時間ほどして帰ってきたが、花粉症らしき症状は発症しなかった。
 去年まで「アレグラ」の効き目で花粉症を乗り越えてきたと思っていたのであるが、呑まなくても発症しないことが確認できた。
 日常生活も特に変えたところはないが、塩にだけは注意してきた。これが功を奏したのだろうかはわからない。とにかく花粉症は72歳直前で克服できたことになる。石原慎太郎氏は確か77歳で発症したと聞いているので、高齢化による症状変化ではないはずである。
 それにしても、花粉症、アトピーの問題を、塩と関連づけて論じているのは、日本いや世界で私だけというのは、残念なことである。
 

手前味噌仕込み完了[自給自足農園「ゆめぞの」から(池田孝蔵)]

投稿日時:2015/02/17(火) 14:26

 昨日、寒中にもかかわらず比較的穏やかな天気という予報の日を選んで、恒例の手前味噌の仕込みを完了した。 何故、面倒な手作り味噌にこだわるかといえば、ただ単に旨い物が食いたいという一心からである。 大豆も種を蒔いて採種したものであるが、この品種に当たるまで何年も要した。味噌に適した品種としては、「鶴の子」が一般的であるが、どういうわけか、わが「ゆめぞの」ではほとんど実がつかないのである。あるとき、ふと、地元の米屋さんで「加須産大豆」の表示を見つけて栽培してみたところ、見事に実った。やはり、地方にあった品種ということだろう。また、少し青みがかっており、濃厚な味が何とも言えないおいしさである。 一昼夜水に浸した大豆を大釜で約二時間煮ると、指でつぶせるくらいの柔らかさになる。これを電気餅つき器で、餅用羽根を味噌用羽根にかえてつぶし、これに米麹と塩をこね合わせて、樽に詰めて完了である。 約半年の熟成期間を経て、黄金色に輝く新味噌を味わうのが楽しみである。 夏は30度を超す暑さが続くが、味噌樽の中は、周囲は白いカビが生えるものの、味噌本体は黄金色に輝いている。それは、糀菌が支配しており、雑菌を寄せ付けないためと思われる。市販の味噌は糀菌が生きていては、味が変化してしまうため、殺菌処理されてしまうため、生きている味噌の味は味わえない。

二月八日は道祖神祭り[自給自足農園「ゆめぞの」から(池田孝蔵)]

投稿日時:2015/02/08(日) 09:31

二月八日は道祖神祭り  「にがつよ~かは道祖神ま~つり 子供よろこび大ま~つり 甘茶呑みにこ~よ♪」  これは、私の生まれ故郷の信州上田の在の農村での、毎年2月8日に近い土日に行われる、男の子供が主体の「道祖神まつり」で、子供達が、太鼓を叩きながら、部落の中を練り歩くときに謡う歌である。  この歌の最後の「甘茶呑みにこ~よ♪」のところを、ときどき「お賽銭持ってこ~よ♪」と入れるのも忘れない。子供達にとって、本当はお賽銭が目当てなのだが、それを言うのはあまりにえげつないことも重々知っているため、ごく控えめに、しっかりと伝えることの大切さも知っていたものだ。そして、そんな道祖神祭りは親の世代、祖父の世代いや、何百年と受け継がれた行事であったはずである。  そんな道祖神祭りが、私が小学6年生の時に、学校の指導で改革されることになった。一つに、それまで中学2年生以下の男の学徒の祭りだったのだが、小学生だけの祭りとなること、二つに、女の子も仲間に加えることだった。しかし、強制ではなくあくまでも子供の自主性に任せるということだったので、わたしの部落では、小学生だけの祭りとすることは、受けいれたものの、女の子を加えることは断固拒否した。なぜならば、最上級生は当時「頭領」とよばれ、子供達の間では絶対権力を有していたあこがれであり、いつか「頭領」になることを夢見てひたすら、上級生の命令に従っていた事情があり、それがある日突然その「頭領」が実現するわけであるから、拒否する理由はない。しかし、女の子を加えることは、それまでの、「頭領」をトップとするヒエラルヒーが崩壊し、単なる「子供会」になってしまう危機感を感じたからである。  当時、この道祖神祭りを実行する子供達の活動は、道祖神祭りの実行にとどまらず、年間を通じての遊び全般におよび、夏休みには、水泳や魚取り、その他一般の休日には、部落内のお寺の庭で野球その他の遊び、雨の日には寺の本堂の畳の部屋で柔道など、冬休みには、1月15日に行われる「ドンドン焼き」の準備と実施。  それらすべてを取り仕切るのが「この「頭領」であり、下級生はこの「頭領」には絶対服従であると共に、水泳や野球、柔道、相撲、魚取りなどあらゆる遊びを教えられ鍛えられたものであった。  小学生から見ると、中学2年生というのは大人であり、到底一緒に遊べるものではなかったはずであるが、上級生が命令や指示ばかりではなく、面倒を見るという伝統もあったような気がする。  たとえば、道祖神祭りの打ち上げは、当番の家で食事会が行われるのであるが、私が小学低学年であったころ、この食事会で出された豆腐汁に大きなネギの切り身が入っており、どうしてもそれが食べられないでいると、となりでそれを見かねた兄は、私の椀を取ると、一気にそのネギを呑み込んでしまった。兄もネギが大嫌いであったので、大いに驚くと共に、感謝したものであった。これについて最近80歳になる長兄に思い出として話したところ、長兄も子供時代にその兄に対して同じことをしたことがあることを知った。それは言ってみれば伝統であったということであろう。ことほど左様に下級生は上級生にしてもらったことを受け継いで、田舎の子供時代が続いてきたのであろう。  それを、改革として、女の子が加わることですべて消えてしまうような気がしたのである。結局、女の子を加えることを拒否したのは、村中で10以上あった会で私の部落だけであることが後でわかった。  道祖神祭りを小学生だけで実行できるかどうかは、従来と同じ規模で実行するかどうかにかかっている。たとえば、道祖神の碑の周囲にムシロで囲い、その裏には「頭領室」というコタツまで完備した部屋を促成で作ることは、かなりの知恵と労力や資材を必要であり、中学生くらいがいないと、子供達でそう簡単にできることではない。  代々の伝統で引き継がれてきたならば、できるかもしれないが、突然小学生だけでといわれても、かなりな困難を伴う。  しかし、なんとか、例年通りの「道祖神祭り」を実施することができた。その頃は当番の家での打ち上げ会の風習もなくなっていたので、わたしは、近所のおばさんの助けを得て「おでんパーティー」を開き、女の子を加えなかった罪滅ぼしに、女の子も招待した。  これらの費用はもちろん「お賽銭」と「ドンドン焼き」の燃え残りを薪にして、近所の菓子店に買い取ってもらったお金から捻出した。  そして、それでも残ったお金は、「頭領」の反省会というか、街まで出かけて、生まれて初めて「中華そば」というものを食べた。その一杯50円の「中華そば」の味は、わたしの生涯の「中華そば」の原点の味となり、その理想の味は今現在も変わらない。その食堂の名前「もみじや」とともに永遠に心に深く刻まれている。現代のラーメンではとてもじゃないが物足りない。  その後、道祖神祭りがどうなったかは知らない。不思議なことに、私が中学、高校時代も実家にいたはずなのに、道祖神祭りがどのように行われたかの記憶がない。それほど関心を失ったということであろう。  ドンドン焼きでも、冬になる前に、子供達はその材料の「ネズミバラ」を主体に山に取りに行く。子供の年齢に応じた大きさに束ねて、山から引き下ろす。上級生が大きな束をひくのを尊敬のまなざしで見ていたことを覚えている。今から考えると、山の下草刈りを兼ねていたような気がする。そして、いかに大きなドンドン焼きを作り上げるかが、各部落の競争でもあった。ネズミバラという雑木はとげがあり扱いにくいが、燃やすとパチパチという音とともに激しく燃える性質があるため、ドンドン焼きには欠かせないが、同時に山の木の下草として面倒な存在であったことも想定される。こんな風習も山の維持に一役かっていたことであろう。  いま、当時の山は実家の裏に存在するが、下草が生い茂り、山に入ることが不可能になっていると聞く。  おそらくドンドン焼きも、単に松飾りを燃やすだけになってしまっているだろうし、道祖神祭りも道祖神の碑にお参りするだけになってしまっているだろう。  まして、「頭領」が取り仕切って下級生にいろんな遊びを指導する風習も消えてしまっているだろう。  昔だったら、イジメなど「頭領」が絶対許さなかったことと思う。  また、この時期は節分の時期とも重なっており、真冬でありながら春を待つ祭りの意味合いもあったことであろう。零下10度以下にもなる寒空の下での祭りは、焚き火を主体とするある意味火祭りの要素があり、いまでも、焚き火の炎をみると、当時の郷愁が蘇ってくる。そして、道祖神お参りには、ワラで作った馬に供えの餅を背負わせて、それを手作りの車に乗せ、子供にひかせる風習から、初午の祝いも兼ねていたのであろう。  その頃の節分の夕方には、村中の民家が一斉に豆まきを行うため、「おにわ~そと」「ふくわ~うち」の声が村中に響き渡り、恥ずかしいどころか、競い合って声を張り上げたものである。  そんな節分行事も私が高校生になるころには、すでにかなり少なくなってしまっていた。 それと同時に、声を張り上げることにも恥ずかしさを感じるようになってしまっていた。  道祖神祭りにしても、節分行事にしても、親の世代、いや祖父の世代以前から続いてきた伝統行事が、わたしが、子供から思春期を迎え、恥ずかしさを認識する時期に合わせるがごとく消え去っていったことは、単なる偶然であろうか。それとも、私を含め村人に行事を継続する責任と勇気がなかったからであろうか。  何百年続いた伝統行事が途絶えてしまった原因は何だったのか今振り返っても分からない。少なくとも私自身は道祖神祭りの最後の「頭領」は務めたつもりである。60年前の話である。
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