自給自足農園「ゆめぞの」から(池田孝蔵)
自給自足農園生活が目指すもの [家庭菜園]
投稿日時:2014/07/04(金) 11:18
自給自足農園が目指すもの とにかく旨いものが食いたい。旨いものとはなにか。希代の美食家として名高い北大路魯山人の「美食の真髄」によれば、海にフグ、陸にワラビだという。美味の誉れ高いホアグラ、ツバメの巣、キャビア、スッポンなどもこれらに比べたら足下にも及ばないという。 実は、私は幼少のころからワラビに対し異常なほどのこだわりがあり、小学校時代から一人でも弁当を持って、山にワラビ取りに出かけた記憶がある。深山の奥深く一人分け入るときの恐怖感と戦いながらのワラビ取りであった。 そのころのワラビに対する思い込みはその後もずっと変わらず、社会人となって、あるとき同期入社の同僚をワラビ取りに誘ったところ、「何故たかだかワラビのためにそんな遠くの山にまで行くの」の問いに、「早春の山をワラビを求めて散策することは楽しいし、食べてもおいしいよ」と答えると、食べたとしても1束も食べられないし、わざわざあんな草取りみたいなことをしなくても、純粋に散策だけ楽しんだ方がよいのでは」と言われて、全く理解し合えることはないと初めて気がついた。相手は私をからかっているのではなく、本当に理解できないでいるように思えたからある。 それ以来現在に至るまで、今でも毎年、新潟県の山までワラビ取りを欠かした事はない。雪深い地方は雪解けの時期は初夏であり、一斉に植物が芽吹くため、山菜には絶好なのである。 魯山人に言わせれば、単に旨いというだけでなく、薄味のその先に無限の広がりを感じさせるのだという。私に言わせれば、無限の広がりはともかくとして、心身共にというか、何か魂が満足しているように感じる。季節のもの、特に山菜をおいしいと言うことは多かれ少なかれ、味というよりは、この種の味を味わっているように思う。それが、自分で山に分け入って取ってきたものとなると、さらに大きな喜びを伴ったおいしさが魂を満足させるのだと思う。 これは自給自足農園についても全く同じことが言えそうである。 「池田さん、そんな苦労しなくても、買ってもいくらもしないから、買った方がマシだ」とか、食べきれないものについては、販売したらどうですか」との忠告が多い。 いずれも自給自足農園の意義が全く理解されていないことに気がつく。 自給自足農園は何も食費節減が目的ではない。したがって、できたものがお金で取引されることに違和感を覚える。だからわたしはいつも「売ってくれと言われれば大根1本1000円でもいやだ、だけど、くれと言われれば喜んで差し上げる」と答えている。そして「おいしかった」のひとことで十分ですと。 現在、「食」という生物的にもっとも原始的なものが、貨幣経済に完全に依存していることが不思議でならない。より安い食をめざして競争した結果、誰も食材を自分で生産はしなくなった。それとともにもっと旨いものを食いたいというより、もっと安いものを求めるようになってしまった。 わたしは、味噌も大豆を栽培して、とれた大豆と糀で、「手前味噌」を作っているが、それは誰がなんと言おうと、私にとっては何物にも代えがたいおいしさである。手前味噌とはよくいったものである。そのおいしさはおそらく、大豆栽培から味噌の仕込み、熟成の経過をも共に味わっているからに違いない。 料理についてもレストランで食する際は、単に口先で味わうか、せめて周囲の雰囲気程度であろうが、自分で調理する場合は、切る、炒める、煮るなど各過程で、ひたすらおいしくなるよう念じながら作ったものは、それこそ世界中どこにもないここだけの味で、わたしはいつも独り言で「うまいなあ」と言いながら食べている。そう、私は、今、独居老人で、独り言でしかないのである。 先日の「半夏生」では、タコを食そうと、たまたまとれたキュウリとトマトを一口大に刻み、自家製の塩こうじであえて、オリーブオイルを垂らし、サラダ感覚でたべた。おそらくどこにもない料理だろうけれど、魂まで満足できた。そして、とれたてのラッキョを塩もみして熱湯をかけて半殺ししたものに、手前味噌をつけて食べると、これはもう、旨いまずいの世界を超えた、魂の世界である。 このように私のめざす自給自足農園は、おそらく通常の常識人には理解されにくいかも知れない。たとえていうなら、コンビニの総菜の正反対に位置するように思う。 めったに購入することはないが、たまたま、ポテトサラダなら、だれが作っても同じだろうと思い、買って食したところ、あやうく吐いてしまうほどであった。味は悪くないのに、体がというよりは魂が受け付けないのである。 これと全く同じ経験を小学生だったころ味わったことがある。それは、あれほど好きだったあんころ餅がある日突然、受け付けなくなってしまったことである。農家であった我が家では自宅栽培でとれたあずきであんこを作っていたのだが、その頃、格安の粉末あんのさらしあんが販売されるようになり、それを利用するようになってしまっていたのだ。兄弟5人の中で私だけが、どうしても食べられなかった記憶がある。あんこ自体が嫌いになったかというと、そうでもない。あずきをつぶした粒あんは好物であったから、いまから考えるとまがいもののさらしあんであったのではないかと思っている。 実家は信州だったため、冬にはきまって野沢菜漬けとたくあん漬けがあったが、子供の頃ほとんど食べたことがなく、私だけが漬け物嫌いで通っていた。しあし、所帯を持つようになってから、現在まで野沢菜漬けとたくあん漬けを欠かしたことはない。漬け物が嫌いなのではなく、まずい漬け物が嫌いなのである。実際は大好物と言える。野沢菜などは入手困難なため、自家栽培を続けている。塩だけで漬け込んだあのおいしさに勝るものはない。これからエキスを抽出して精製したら、極上な味の素ができあがるのではないか、とひそかに思い込んでいるほどである。高菜漬けもおいしいが、若干くせがある。 こんな生い立ちをしてきた私には定年後には必然的に自給自足農園生活しか考えられなかったのだ。それは単なる趣味でもないし、今はやりのスローフーズとも違ったもので、一言で言うと「旨いものが食いたい」だけかもしれない。しかし、美食ともまた違うような気がする。 これは、何も農産物に限ったものではなく、海産物でもたとえば殻付きカキは、できたら水洗いしないでレモンを絞って食べたいところであるが、店ではどうしても水洗いを勧められる。たしかに、中のよごれを見ると、そのまま食するには勇気がいる。いっそのこときれいな海水を購入してそれをかけて食べたいところである。口先で旨いと感じるか、魂が旨いと感じるかくらいの差がある。 そのほかではしめ鯖である。自分で作ったしめ鯖の旨さといったらない。しかしながら、注意していても、たまにあたってしまうことがある。過去に4回経験しているが、おう吐、下痢はないものの、胃の鈍痛は一週間も続くあの苦しさはたまらない。それでも、新鮮な鯖を見ると、つい、あの旨さの魅力に負けそうになる。 倅の嫁からあるとき「お義父さんは食べ物は何が好きですか」と問われて、「おいしいものが好き」と答えてしまった。嫁は当たり前と言わんばかりに笑っていたが、どんなものにも旨いものからまずいものまでその範囲は非常に広い。一般に流通しているものに不満があるなら、自分で作るしかない。調理ばかりでなく、野菜を自家栽培すればさらに味わいは深まる。できることなら、漁師も自前でやればもっと旨いものが食べられるのだが、そこまではかないそうにない。
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